坂口家と安吾
最終更新日:2012年6月1日
坂口家
先祖は肥前国(佐賀県)坂口村出身の陶工で、加賀国(石川県)大聖寺で九谷焼を作っていたが、慶長年間(1598年頃)に殿様が国替えで越後国(新潟県)に移ったため、いっしょにきたという。やがて阿賀野川沿岸の湿地開拓に乗り出し、巨大な富を手に入れた。
初代 津右衛門(1703~1775)は金屋村 甚兵衛の三男として生まれ、大安寺に居を構えた。このとき、すでに相当の資産を持っていたという。「阿賀野川の水が涸れても、津右衛門の金は尽きない」「甚兵衛どんの小判を一枚ずつ重ねると、五頭山の頂よりも高くなる」と言われたほどである。
八代 津右衛門(1825~1881)は太子堂の原伝兵衛の子で、養子に入って家督を継いだ。戊辰戦争で会津藩に協力したり伴百悦をかくまったりしたため、戦後身柄を拘束された。保釈されて戻ってきたときは、財産は何者かによって処分され、多額の借財まで負わされたため、明治10年頃、無一物の状態で東京へ逃れたという。エピソードとしては、花火好きで屋敷内に工場をつくり、冬でも秋葉山から花火を打ちあげたとか、来客の接待などで新潟の料亭に行くときは、大名行列をまねて馬を仕立てて繰りだし、料亭の座敷を田んぼに見立てて豆腐を敷きつめ、大勢の裸の芸者に田植えのまねごとをさせて酒宴を楽しんだとか言われている。
安吾の家系はというと、二代津右衛門の子で、妹に婿を取らせて三代を継がせ、自分自身は分家した友伯が初代にあたる。その後友伯家には、俳諧や詩歌を楽しみ、五合庵に住む良寛を訪ね唱和した文沖がいる。安吾の父 仁一郎(1859~1923)は、新潟米穀取引所理事・中蒲原郡会議員・新潟新聞社長・衆議院議員として活躍し郷土の発展に尽くす一方、五峰の雅号をもつ漢詩人として越後における不朽の著作である「北越詩話」を刊行した。
安吾と新津
新津は、安吾の父祖の地である。安吾の本籍地は、中蒲原郡阿賀浦村大安寺(旧新津市)で、安吾が眠っている坂口家の墓も大安寺にある。
父 仁一郎が新津から新潟へ移った後、安吾は新潟で生まれたので、新津のことはよくわからないと思うが、安吾の虚無的思想には父祖の地新津の風土があらわれている。
毎年、安吾の命日にあたる2月17日には新津安吾の会のメンバーが中心となって墓前で「安吾忌」が行われており、市内外から熱心な安吾ファンが新津を訪れ、安吾を偲んでいる。
文学碑
あちらこちら命がけ
この碑文は、安吾直筆の色紙からとったもので、安吾の文学精神や生き方を端的に表しています。
この文学碑は新津駅近くに建立されています。
頭上に花がありました。
その下にひっそりと
無限の虚空が満ちていました。
ひそひそと花が降ります。
それだけのことです。
この碑文は、小説「桜の森の満開の下」の一節を、安吾の孫の晴子さんによって書かれたものが彫られています。
この文学碑は図書館裏に建立されています。
亡き友の泳ぎし跡か川広し
この句碑は作家檀一雄氏が安吾の墓参りの時に詠んだ句です。
阿賀野川堤防広場(大安寺集落開発センター隣地)に句碑があります。
詳しい案内図はこちら(外部リンク:坂口安吾デジタルミュージアムへ)(外部サイト)