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安吾の肖像

安吾語録

私は偉大な破壊を愛していた。 「堕落論」堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。「堕落論」余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう。 「新潟中学を去る時の句」僕の生き方にただ一つでも人並みの信条があったとすれば、それは『後悔すべからず』ということであった。「青春論」ほんとうに可愛い子供は悪い子供の中にいる。「風と光と二十の私と」

安吾略歴

誕生

明治39年(1906)10月20日、父仁一郎、母アサの五男として新潟市西大畑町に生まれる。(本名・炳五)

西堀幼稚園、新潟尋常高等小学校(現新潟小学校)へ進む。大正8年県立新潟中学校(現県立新潟高等学校)入学。

この頃から学校にもあまり登校せず、ひとり日本海に面する浜辺に寝ころんで空と海と風と波と光とを終日眺め思索した。荒漠たる風と日本海の風景は安吾文学の原風景といえる。

 

余は偉大なる落伍者となっていつの日か
歴史の中によみがえるであろう

大正11年、中学3年生の9月、落第が決定的となり東京の豊山中学3年に編入。この時、新潟中学校の机のふたに「余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう」と彫ったという。大正14年豊山中学を卒業。世田谷下北沢の分教場(現代沢小学校)の代用教員となり自然の中に悪童たちと遊んだ。その体験は『風と光と二十の私と』になる。この頃から求道の厳しさに対する憧れが強まる。

求道者、安吾

大正15年、東洋大学印度哲学倫理学科に入学。悟りを開くため多くの哲学宗教書を読破、睡眠4時間という厳しい修行生活を1年半続け神経衰弱に陥ったが、それを梵語、パーリ語、チベット語、フランス語、ラテン語などを猛然と勉強することにより克服した。

文壇デビュー 昭和6年1月、処女作『木枯の酒倉から』を発表。5月『ふるさとに寄する讃歌』、6月『風博士』を発表、牧野伸一が激賞。7月『黒谷村』を発表、島崎藤村などが賞賛し、新進作家として文壇に認められる。昭和7年の夏、新進女流作家の矢田津世子を知り烈しいプラトニック・ラブに陥り、安吾は懊悩し酒場のマダムなどと同棲するデカダンスな生活を重ね、4年後ようやく彼女と袂別を決意。昭和13年、新たな決意のもと執筆した長編『吹雪物語』は酷評され、安吾は自分に絶望し、転居を繰り返し自らを孤独の淵に置きながら、どん底の淪落の生活を送る。しかし『紫大納言』(S14)、『木々の精、谷の精』(S14)などの新境地をひらく。
 

小菅刑務所・ドライアイス工場・軍艦に見いだす必然の美

昭和17年、国粋主義の時代、大胆な『日本文化私観』を発表し、伝統文化を鵜呑みにすることの欺瞞を指摘した。

 

堕落論

堕ち切ることにより真実の救いを発見せよ

昭和21年、敗戦後の昏迷の中でいち早く戦後の本質を洞察し、4月『堕落論』、6月に『白痴』を発表。この2編は、若者を中心に戦後虚脱していた日本人に強い衝撃を与えた。戦前戦中の倫理観を捨て新たな生き方を指し示す革命的宣言は希望の書となり、『堕落論』によって戦後の日本が再スタートした。昭和22年『風と光と二十の私と』、『桜の森の満開の下』、『不連続殺人事件』、『青鬼の褌を洗う女』を発表。

戦う安吾 昭和25年、『安吾巷談』を連載し、戦後のタブーに挑戦する。昭和26年国税局と税金滞納、差押えをめぐって『負ケラレマセン勝ツマデハ』を発表。税金闘争をひとり戦い抜き、同年9月には競輪不正事件で自転車振興会を相手どり戦う。『夜長姫と耳男』(S27)発表。
急逝

昭和30年(1955)2月17日、古代史の雄大な構想とともに、原風景に由来する創造活動に意欲を燃やしはじめた矢先に、桐生の自宅で脳溢血で急逝した。享年48。

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