石油王中野貫一
最終更新日:2017年9月6日
中野家は、越後国蒲原郡金津村で代々庄屋を勤めていた大地主でありました。1804(文化元)年中野貫一翁の曾祖父、次郎左衛門が草生水油(石油)採掘権を買い取り「泉舎(イズミヤ)」を号し、また当時の「草生水油稼人」をも号するようになりました。
中野貫一は、1846(弘化3)年生まれ、14才にして父を亡くし、庄屋と「泉舎(イズミヤ)」を引き継ぐことになりました。1873(明治6)年「石油坑法」が公布されると直ちに新潟県庁に石油試掘を出願、許可を得て翌1874(明治7)年(中野貫一28才)9月、自分の所有地内に草生水場を開坑して若干の出油に成功することができました。その後、1886(明治19)年まで停滞しましたが、塩谷地区で成功をおさめ、3600リットル/日の採油を得るに至りました。
その成功もつかの間、1886(明治19)年に共同油井が坑法違反として採掘禁止とされました。この塩谷事件は、同年6月3日新潟県知事篠崎五郎名で坑法違反を理由に塩谷区域の坑業禁止・油井および借区権没収の命令が出されたことに始まったのでした。中野貫一、九鬼義孝、眞柄富衛、鶴田熊次郎らは禁止の不当性を主張し、県・政府に請願運動を続けること5年に及んだが受け入れられなく、他の人が脱落するなか、中野貫一は一人これを不服として行政裁判所へ訴え、1891(明治24)年に勝訴し賠償金35000円を得ることができました。
その間、中野貫一は、1888(明治21)年の日本石油の創立にも、発起人として参画していました。
最初の試掘から29年目の1903(明治36)年、初めての商業規模の油田を掘り当て金津鉱場開発の端を開いたのでした。
当時の二大石油会社であった日本石油及び宝田石油に次ぐ大産油業者に成長、明治、大正時代に「石油王」と呼ばれるに至ったのでした。
このあと中野貫一は、朝日、柄目木、天ケ沢と事業を拡大し、1910(明治43)年頃には日産2361キロリットルを産出していました。さらに、秋田県や北樺太の石油開発にも手を広げることになりました。
なお、1918(大正7)年に100万円の資金で中野財団を設立し、教育や社会福祉事業を始めました。旧金津小学校講堂は中野貫一が寄付した金津尋常小学校の施設です。このほかに近隣の小学校にも寄付を行っていました。
また、金津掘出神社は中野貫一が金津村内に12社まつってあったのを現在の1社にまとめたもので、現在でも庭園が名残をとどめています。
1906(明治39)年には金津村の村長に就任することになりました。しかし、1909(明治42)年に原油のため池が決壊し、水田に油が流失した責任を取って村長を辞職し、鉱業会の会長も辞任することになりました。
1906(明治39)年に中央石油(株)を設立し、社長となり、1909(明治42)年に中野合資会社を組織しました。これは、1914(大正3)年に中野興業株式会社に改められ、石油、林業、土地開発等の事業を手掛けるようになりました。石油だけでなく、農地の開墾、教育への還元など常に自分の出身地のことに責任を持った人であったと言えます。そして中野貫一は終生金津を離れませんでした。これは、日本石油、宝田石油が本社を大都市に移転させたことと対照的でした。もともと地主であるということもその要因として考えられるますが、むしろそれより一郷村に過ぎなかった金津のことを常に思いを巡らせ、それとの石油事業との共存を考慮していたのではないかと考えられます。現在でも亡き中野貫一のことを「中野様」と呼ぶ人が見られるが、それほどに社会や地域に対する貢献が大きかったと思います。
中野貫一は、1928(昭和3)年に死去しました。中央石油は既に1920(大正9)年に日本石油に買収されており、中野興業もその後、1942(昭和17)年帝国石油に合併されました。
1989(平成元)年一帯は新津市(現在の新潟市)により石油の里として整備され1997年(平成9年)からは、邸宅及び庭園が中野邸記念館(外部サイト)として開放されています。