大栄寺の豆まき・溝口家墓所
最終更新日:2012年6月1日
曹洞宗選仏の大道場「大栄寺」と豆まき(横越地区)
寛永8年(1631年)、3ヵ寺を合併して大栄寺となる
北方文化博物館から歩いて1~2分のところに、大栄寺があります。大栄寺は、曹洞宗選仏の大道場であり、北越の古禅林として幾多の禅匠を輩出しています。
寛永8年(1631年)伊藤左五右ェ門が、村上領草水村の観音寺十一世笑山全悦和尚を請し、満光、極楽、得船の三カ寺を合併して大栄寺と改め開山しました。
境内には沢海城主の墓や芭蕉の句碑などがあります。春には、門前や境内に植栽されている桜が花開く名所としても知られています。
厳しい寒行の後は家庭繁栄等の願いを込め豆まき
住みこみの修行僧が、毎月1日と15日に「わらじ」をはいて托鉢の行を積んでいますが、これに加えて寒の間25日、どんな吹雪の日でも休むことなく行われる寒行は、最も厳しい修行のひとつとされています。その寒行も2月3日に満願を迎え、本堂で「大般若経」を転読することで終わります。
その後は、子どもからお年寄りまでが、家庭繁栄等を願ってまかれる豆やお菓子を拾います。
- 所在地:江南区沢海3-3-18
- 駐車場 10台
- 問い合わせ 大栄寺
- 電話:025-385-2032
沢海藩主溝口家墓所
大栄寺にある沢海藩主の墓所
沢海藩は、慶長15年(1610年)、新発田藩の初代藩主溝口秀勝の没後、新発田藩二代藩主宣勝の弟である善勝(沢海藩初代藩主)が1万2千石の領地を分知されたことで成立しました。沢海藩二代藩主政勝までは順調に推移したが、三代政良の子政武は御家存亡の折、23歳で早世。御家断絶の危機を避けるため、姻戚の水口藩主加藤明友の次男政親を養子に迎え、四代目としました。
しかし、貞享4年(1687年)、政親の不行跡により改易となり、沢海藩は断絶しました。慶長15年(1610年)の成立より77年後の断絶でした。
大栄寺墓地にある歴代藩主の墓は、二代政勝、三代政良、四代目となるはずだった政武の墓で、初代善勝の墓は江戸屋敷に近い東京都品川区の青松寺にあり、四代政親の墓は滋賀県水口町の蓮華寺にあります。
なお、平成6年(1994年)9月に横越町教育委員会の行った発掘調査では、骨壷に入った火葬骨のほか、銅銭、木棺をつないだ多数の釘などが出土し、三百数十年を経ても木棺の一部は残存していました。