坂井輪地区の歴史
最終更新日:2012年6月1日
原始・古代
今から1600年も前の古墳時代中期、現在は流通センターとなっている場所の南側(的場史跡公園)には小さな的場潟があり、人々はその潟のほとりの低い砂山を足場に、信濃川の河口や潟などで漁を営み始めたようです。的場遺跡として知られるこの遺跡は平成元(1989年)に流通センターの拡張に伴い発掘されました。
文字が記された木の札(木簡)や奈良時代に流通した古い銭貨の一つである「和同開珎」が出土しました。
的場遺跡は、全国でも数少ないなら・平安時代の鮭漁にかかわる遺跡として、平成4年には市指定史跡に、平成6年には県指定史跡となりました。現在では、史跡公園として整備され、人々の憩いの場となっています。
水や砂との戦い
坂井輪地区の村落の大部分は、江戸時代に入ってから開発されました。地区を貫流する西川は、重要な交通路の役割も果たしていました。
亀貝・小新から黒埼にかけては市西部でも低い場所で、洪水が多く発生しており、いったん冠水した田畑から水がなかなか引かず、水との闘いに明け暮れた地域でした。新川の開削によって大潟・田潟・鎧潟の三潟が干上がりましたが、坂井輪郷は排水不良で湿地も多く、排水は大きな課題となって残っていました。
一方、砂丘部では飛砂の害がひどく、砂防林の造成を行っている村もありました。
行政区の移り変わり
24の小さな村が、合併によって4村に再編されたのは、明治22(1889)年のこと。坂井・須賀・大野郷屋の3村は「上坂井輪村」に、小針新田・市左衛門郷屋・平島・青山・寺尾の5村は「下坂井輪村」に、新通・笠木・高山・槙尾・築千坊・五十嵐浜村受・丸潟新田・槙尾村受・高山村受・向島新田・玄的新田・坂井村受・嘉礼木新田・新通村受の14村は「新通村」に、小新・亀貝の2村が「新貝村」になりました。
明治34年には、上坂井輪村・下坂井輪村・新貝村・新通村の一部が合併して、「坂井輪村」が誕生。村の名前は、ともに相談しあって決めたそうで、『車の輪のようになってみんな仲良く』、『家や田畑を水から守る土手を輪のように巡らし、輪の内と呼んでいた』、などのいろいろな説があります。
なお、このときに、笠木・高山・槙尾の3地区は、隣接する「中野小屋村」へと編入されました。
砂丘部に松林や畑、平地には水田が広がっていた坂井輪地区が大きく姿を変えたのは、昭和29(1954)年11月1日の新潟市との合併がきっかけともいえるでしょう。当時、戸数921戸、人口6,736人だった坂井輪地区。眼下に西蒲原の沃野を見下ろし、新潟市街を遠望できる砂丘地は住宅地として絶好――と、昭和30年頃から砂丘部を中心に団地の造成や個人住宅の建設が始まり、人口も急増していきました。
昭和35年6月1日には、地元の努力によって、小針駅が開設されました。
また同年、内野町の新潟市合併に伴い、五十嵐1の町の一部から有明町にかけての地域が、坂井輪地区に編入されました。
昭和39年の新潟地震後、被災した人たちが郊外に住宅を求めたことや、現在の国道116号線が昭和40年に西小針まで延長されたことによる交通の便の良さなどから、急速に世帯数・人口が増加。坂井輪地区は、10年ほどの間にたちまち立派な市街地に発展し、小針十字路付近は「小針銀座」などと呼ばれるようになりました。
西川遊歩道に建てられた「治水記念碑」の背面には、「舟浮けて稲をか里(り)しも誰か知る/いらか連なるこの坂井郷」という歌が刻まれています。この歌からも、坂井輪地域の急激な宅地化の様子をうかがうことができるでしょう。
その後も、公共施設やショッピングセンターなどの施設整備が進み、昭和59(1984)年には物流の中心となる流通センターが完成しました。
平成に入ると、交通網の整備が進み、平成元年には国道116号新潟西バイパスの黒埼~小新間、平成2年には小新~亀貝間、平成7年には亀貝~高山間、平成10年には高山~曽和間が開通しました。平成18年10月には、北陸自動車道黒埼PAスマートICが恒久的に設置されたほか、12月には新潟西バイパスの高山~曽和間が4車線に拡充され、利便性がますます向上しています。
平成19年4月1日の政令指定都市移行に伴い、関屋の一部と関屋堀割町が坂井輪地区に仲間入りしました。また、大規模な住宅団地造成も進められており、土地区画整理事業も行われています。
平成26年には西区役所の新庁舎が整備されました。
参考文献:ふるさと坂井輪(坂井輪地域学研究会編)、文化探検マップシリーズvol.4 坂井輪地区(新潟市文化振興課作成)