黒埼地区の歴史
最終更新日:2012年6月1日
原始・古代
昭和27年に緒立八幡宮社殿脇に発見された緒立遺跡は、埋没砂丘上にあり、八幡宮を中心に南西から北東方向に500メートル以上にわたり細長く連なっています。平成6年(1994年)には新潟県の指定文化財となりました。
遺跡は、縄文時代末期(約2,300年前)から弥生時代・古墳時代前期(約1,700年前)・奈良から平安時代(1,300~1,200年前)・中世(約700年前)と、複合期にわたるもので、それぞれに繁栄を物語る出土品が確認されています。
特に古墳時代前期の葺き石を伴う古墳は、多量の出土品とともに重要な遺跡として注目されています。
また、江戸時代終わり頃には同地で鉱泉が湧き出し、湯治場として親しまれるようになりました。
伝説と逸話
緒立八幡宮には、源義家に討たれた黒鳥兵衛の伝説が残る。越後のさまざまな奇異談を集めた『北越奇談』という書物によると、頭と胴を切断して埋められたため、頭と胴が一緒になろうとして振動し、鳴動するのだといいます。秋晴れの日、今にも風雨が来るかという時に聞こえるそうです。
また、山田地区には1211年に親鸞聖人が越後を去るとき、人々は山王神社(現在の山田神社)に集まり、別れを惜しんだそうです。人々は各自手作りの酒を差し上げ、ある人は酒の肴に焼いた鮒を差し上げました。聖人人は袈裟を脱いでそばのエノキの木にかけ、「念仏往生が間違いなければこの鮒は必ず生き返る」と言って御手洗水に放したら、鮒が不思議なことに生き返って泳ぎだしました。
そして、1769年4月の大風でエノキの木が倒れたが、その枝をひき割ったところ、幹の切り口に聖人のお姿と焼鮒の形が現れたということです。
行政区の移り変わり
明治22(1889)年の町村制施行を受けて、金巻村、板井村、木場村、黒鳥村、鳥原村の5カ村に統合されたこの地域は、明治34(1901)年にこの5カ村が合併され県下でも有数の大村、黒埼村となりました。
「黒埼」という名の由来については、古くはこの地方を「クロサキゴウ」と呼んでいたいきさつもあり、「クロサキ」が良いということで決定したといわれています。
なお、「クロサキ」の「サキ」については、内水面の岬ということから土偏の「埼」と書くこととしています(山偏の「崎」は、山が突き出た先端の岬の意)。
昭和23年には現在の山田と善久を合併、昭和48年に黒埼村から黒埼町となり、平成13年には新潟市と合併しました。
参考文献:黒埼百年―村をおこし町をつくった人々のものがたり―