阿賀野川の堀割
最終更新日:2012年6月1日
江戸時代以前、砂丘に遮られて荒川河口から信濃川河口までの間に、日本海に直接流入する河川はありませんでした。そのため、人々は常に水との闘いを余儀なくされていました。
新発田藩は、紫雲寺潟干拓や福島潟開発を目論み、享保15年(1730年)に幕府の監督の下、阿賀野川を松ヶ崎で掘り割り、日本海に直接流す工事を行いました。この工事には、新潟湊の水位の低下を心配する新潟町の猛反対がありました。そのため、増水分だけを流す堀とすること、堀割が破壊されたらすぐに復旧すること、湊として使用しないことなどを条件に実施されました。
しかし、翌年の春の雪解け水などで、堀割は本流となってしまいました。この結果、阿賀野川の水位は4尺(約1.2メートル)も下がり、島見前潟は美田となり、福島潟周辺にも広大な干上り地ができたといわれます。以後、阿賀野川右岸の開発は急速に進展することとなり、葛塚をはじめ多くの村が成立しました。反面、新潟湊への水量増加のための工事や用水の確保のための新江用水の開削など多くの負担を背負うこととなりました。
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