福島潟の干拓
最終更新日:2012年6月1日
阿賀野川の松ヶ崎開削で、広大な開発可能な土地ができると、幕府は宝暦4年(1754年)福島潟周辺の33カ村を幕府領とし、潟の開発を頸城郡鉢崎村(現柏崎市)の山本丈右衛門に許可しました。丈右衛門は潟に流れ込む水量を少なくするため加治川や新発田川の改修、新太田川の掘削などを行い、新鼻や太田地区など89町歩(約89ヘクタール)を開発し、明和7年(1770年)病死しました。
寛政元年(1789年)には、水原町市島徳次郎をはじめとする13人衆に受け継がれます。開発する場所を土手で囲み、中にマコモを植えて土砂を沈殿させ、水を抜いて水田にする方法が行われました。また、潟に流入する河川の上流から土を流し、潟の底を高くする方法もとられました。さらに、潟の全面開発を目指し、浜茄子新道(県道豊栄・天王線)、天王新道、山倉新道(主要地方道新潟・五泉・間瀬線)の堤防を築き、潟を分割しましたが、洪水で決壊し、不成功に終りました。13人衆の開発面積は潟の周囲全面におよび452町歩でした。
文政7年(1824年)には、潟周辺は新発田藩の預地となりました。藩では、阿賀野川から新井郷川への逆水止めの工事を実施したり、土流しの手段を積極的に行いました。また、各新道の堤の強化をするとともに、ジョレンで潟中の泥を掻き上げて田に入れ、田畑の安定を図り、452町歩の耕地を開発しました。
安政2年(1855年)新発田藩は潟水面540町歩を、葛塚の斎藤七郎治や内沼の佐藤名平など15人に譲渡しました。このことは、近世土木技術の限界を認識し、潟の全面干拓が放棄されたことを意味します。その後、小規模な開発が行われますが、明治44年(1911年)に、潟は天王市島家の所有となりました。
昭和31年(1956年)潟は市島家から買収され、昭和36年(1961年)の新井郷川排水機場の完成を足がかりに、昭和43年から国営干拓が始められました。北側を遊水池として残し、169ヘクタールの農地を生み出して、昭和50年(1975年)に完工しました。阿賀野川の松ヶ崎開削以来、246年後のことでした。
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